2013年09月08日

粛々と「お義母さん」を看取る・・・




お義母さんと一緒に暮らすようになって長い。
別宅も完成し、寝たきりになったお義母さんを、
家人は、すべてを投げ打って、誠心誠意看護する。

今年になって、老体はますます悪化し、
看護の内容も、24時間、目を離せない状態で、
ずっと家人がお世話をしてきた。

途中、2回ばかり、危篤状態があり、
チェンマイ病院に運ばれながら、
何とか、奇跡的に回復し、自宅での介護が続く。

8月30日の夜、日付が変わって、31日未明、
お義母さんは3度目の危篤状態で、
チェンマイ大学病院のICUに入った。

お医者さんの言では、もう、永くないということで、
親戚中が病院に詰めかけ、
最期の看病にあたっていた。

31日は、朝、病院から会社に向かい、
例のごとく、給料や各種支払いのために、
ギリギリまで、金策に奔走して、病院の家人からの連絡を待つ。

お義母さんは、完全な意識不明の状況で、医者も断念したところ、
31日も持ちこたえ、とりあえず、自力で呼吸ができないので、
たくさんのチューブをつけたまま、死の淵を彷徨っている。

お義母さんは、すでに生気はないのに、
すさまじいまでの生命力で、
一日一日命を繋げていく。

腎臓の機能がダメで、おしっこが自力で出せないうえに、
延命のための費用が相当にかかるとのことで、
親類縁者の皆、ここからの数日、完全に憔悴状態になってきた。

お義母さんの生命の灯は、一進一退を繰り返しつつ、
どうにも落ち着かないまま、仕事先と病院を往復しながら
ただただ延命の措置が取られていく。

ソステ、迎えた7日、お医者さんとの話し合いの中で、
これ以上の延命措置をとらない決断をし、

日付が変わる時間帯に、チェンマイ大学病院ICU特別室から、
実家ランプーンへ救急車で運ばれた。

8日は日曜日で、ワス自身も、そのまま実家に詰めることになり、
形式的に酸素ボンベに繋がれたお義母さんを粛々と看取ることになる。

お義母さんの体は赤銅色に変色し、とりわけ手足の指は、
真っ黒に成り果てて、もうすでに血が循環していないので、
ひんやりどころか、恐ろしいぐらいに冷たい。

まさに死人以上に死人だ。

家人の兄姉妹7人も集まり、傍らで見守りながら、
朝から、お坊さんも呼ばれ、
いつでも天に召されてもいい状態になっている。

ワスは、限りなくゆっくりと流れる時間の中で、
自然と考えることが多く、
いろいろな想いが去来してきた。

振り返れば、実の母親と暮らした18年間よりも、
この吹けば飛ぶような枯れ木のごとき軽いお義母さんとのえにしが長く、
すでに22年間の月日が流れている。

お義母さんは、時折、酸素マスクの中で咳き込みながら、
死に抗うように、顔を左右に揺らす、それが生きている証拠だ。

<お義母さん、もうじゅうぶんです。
安からに、成仏されて下さい・・・>

口には出さないけれど、ずっと心の中で祈っている。

お坊さんが、
何か、言葉に出して念を送る。

その刹那、、、
お義母さんの呼吸が止まった(ように観えた)・・・

皆が駆け寄り、ワイをして祈る。

そうすると、
お義母さんの体が、
また、ビクンと動く。

お坊さんとお義母さんのそんなやりとりが2,3度繰り返されて、
静かに時間が過ぎる。

そうして、とうとう、
お義母さんの呼吸(いき)が、
本当に止まってしまった。

ワスは、一生懸命に自分の人生をなぞってみる。
幸か不幸か、これまで人の死に、
ほとんど直接関わったことがない。

手術後の実の父親の死に目にも、
1時間ばかり遅れている。

この3月に亡くなった大カンチャナさんも、
知らせを受けて病院にに駆けつけた時には、
やはり、死後1時間を経ている。

生きているその瞬間から、
死して固体となるまさにその瞬間を看取ったのは、
自分の人生の中で、このお義母さんが初めてかもしれない。

・・・「死」・・・

不思議なものだ。

この世の苦しみの一切合切から解放されて、
別の世界に旅立つのだろうか。

それでも、人は死を畏れ、
生に執着する。


お義母さんも、ずっと体の苦痛を訴えながら、
生と死の狭間で闘いつつ、

最期は、何事もなかったように、
全く動かなくなってしまった。

2013年、
9月8日、、
13:50、、、

全く、不可思議な光景だ・・・

それでも、粛々と粛々と、
現前の事実を受け止めていくしかない。

ソステ、、、

粛々と粛々と、
残された人が、故人を悼む。

ワスのお義母さん・・・

享年88歳

もう、苦しまなくても大丈夫ですよ。
どうぞ、安らかにお眠り下さい。


合掌