困難と対峙して、何かを始めるには
信じられないようなエネルギーを要し
また諦めずに続けていくことに価値がある
「継続は力なり」
継続は力なりの意味は、
「何事も諦めずにやり続ければ
必ずいつしか成功する」
ということに帰着しますが、
普通に継続するだけでは成功できません。
もちろんやらないよりは、
継続することが大切ですが、
「間違った知識」とか「正しくないやり方」
あるいは間違ったベクトルに向かって、
どんなに継続しても力がつかないのは明白です。
自分自身が、ここを時に勘違いしながら、
それこそ闇雲に、継続は力なり
を謳ってきたかもしれません。
それを今軌道修正しながら、
立ち止まらずに、走りながら、
その内容も吟味しつつ
継続していくように
最大限の努力を費やします。
タイ語でズバリ
<継続は力なり>
を表現するのは難しく、
タイ語に接する中で、
一番近いフレーズを模索して、
タイ語の座右の銘としています。
先述のタイ語版<成せば成る>と
併せて、車の両輪のごとく
大切な言葉の起爆剤
{ความเพียรจะกลับมาเป็นพลัง}
<クワームピヤン・ヂャ・グラッ(プ)・マー・
ペン・パラン(グ)>
一方、タイ語学習という側面からも、
言葉を学んでいくというプロセスは、
とにかく「続けた者勝ち」だと信じています。
派手さはありませんが、
「ウサギと亀」の喩えにもあるように、
どんなに歩みがのろくても、
最後まで頑張り通した亀さんが
ゴールで笑うのです。
言葉の勉強も一生続くので、
ゴールという概念はないのかもしれませんが、
とにかく続けた者が勝ちです。
そこで、このタイ語版
<継続は力なり>
何かを絶え間なく
ずっと継続していくと云う行為 は、
困難を伴いますが、切ないまでに美しい
<クワームピヤン>「勤勉さ」
<ヂャ・グラッ(プ)・マー>「返ってくる」
<ペン・パラン(グ)> 「力として」
<ピヤン>は、
<カヤン>にごくごく近い意味で
名詞で、「勤勉、努力」
動詞で、「(成功するまで)努力し続ける」となり
<クワーム>とリンクして
抽象名詞「勤勉努力」を形成します。
一方、<パラン(グ)>は
「力、エネルギー」等の意味で
全体を直訳すれば
「勤勉努力は、力となって返ってくる」
→「奮闘努力し続けることは力に帰する」
そこで、この<ピヤン>の意味合いが、
「絶え間なく成功するまで努力し続ける」
というニュアンスを帯びて
日本語で説くところの
「継続(して努力する行為)は力なり!」
に集約されていきます。
心の中で、
<継続は力なり>と念ずると同時に、
タイ語でも、
<クワームピヤン・ヂャ・グラッ(プ)・マー・
ペン・パラン(グ)>
と唱えてみたい。